ドル(米ドル)、ユーロ、、円元、ウォン、ルーブルなど、世界には様々な通貨の単位があります。今回は世界で使われている主要な通貨の単位と歴史を探っていきたいと思います。
ドルの由来は大型銀貨「ターレル」
アメリカで現在流通しており、世界の基軸通貨として扱われている「ドル」。このドルという言葉のもとになっているのが、16世紀初頭から数百年に渡りヨーロッパで使われていた大型銀貨「ターレル」です。
1518年、ヨーロッパのボヘミア地方(現在のチェコ)でヨアヒムターレルという銀山が発見され、そこで作られた銀貨は「ターレル」と呼ばれるようになりました。
同様の銀貨は銀が豊富に取れる周辺の渓谷地帯でも鋳造されるようになり、やがてターレルは大型銀貨を指す言葉にと変化しました。
16世紀末から17世紀にかけてはヨーロッパ各地各地で様々なターレルが鋳造されるようになり、スペインでは「ドレラ」と呼ばれて親しまれました。
一方、後のアメリカ合衆国である北アメリカの英国植民地ではイギリスのポンドが使用されていましたが、17世紀以降はスペインのドレラが頻繁に入ってくるようになりました。
1775年~1783年のアメリカ独立戦争でアメリカ合衆国の独立が認められると、13植民地でバラバラだった貨幣を統一する機運が高まります。1792年にはアメリカ合衆国造幣局が設立され、流通量が多かったドレラの英語読みである「ドル」が統一通貨として採用されました。
独立~2度に渡る中央銀行の誕生
アメリカ合衆国財務長官のアレクサンダー・ハミルトンなどは中央銀行(日本で言う日銀)の設立を訴えましたが、州の独立と権限を重視する南部を中心に反対の声が上がりました。
そんな中でも1791年には合衆国第一銀行が設立されましたが、1811年に失効。1816年には合衆国第二銀行として復活しますが、1837年に再び失効。これ以降暫くの間中央銀行の再建は行われず、個々の銀行がドル紙幣を発行する状態が続きます。
中央銀行という統制機関が存在せずに、個々の銀行が自分の判断で通貨を発行していたため、通貨供給量が調整されず、1907年にはアメリカ国内で大規模な金融恐慌が発生。多くの州法銀行、証券会社、地方銀行が破綻し、300万人以上の失業者が発生しました。
このような状況を受けて、アメリカ国内でも欧州諸国のように中央銀行を整備すべきだという議論が再び深まっていきます。クーン・ローブ商会のシニアパートナーであるジェイコブ・シフは「もし我が国の通貨制度が改められなければ、遅かれ早かれ、これまでの恐慌があたかも児戯にみえるようなとてつもない恐慌に見舞われるだろう」と発言。
1913年に連邦準備制度(FRS)が成立し、中央銀行が成立するようになりました。
当初は金本位制(通貨と金=GOLDの交換を政府が保証する)制度を採用していたアメリカですが、第一次世界大戦による混乱の影響で管理通貨制度に一時的に移行します。1919年には金の流入が増えたこともあり世界でいち早く金本位制を復活させ、世界の基軸通貨の地位を得ます。
第二次世界大戦ではヨーロッパや日本が激しい戦いに巻き込まれる中でアメリカは本土が直接戦禍に巻き込まれることがほぼなくなく、相対的な経済力はさらに上昇。1944年には金1オンス=35ドルとする固定相場制が採用され、世界経済は安定を取り戻しました。
しかし、戦後ヨーロッパや日本の復興が進むと相対的にドルの地位は低下。国外へのドルの流出が進み、金との兌換が困難になったことから、1971年には金本位制を再び放棄。再び管理通貨制度を採用し、各国は変動相場制に移行しました。しかし、依然として世界の基軸通貨としての立場は失われておらず、その信頼性は相当に高いです。
ユーロの由来はギリシャ神話の登場人物
欧州連合で使われているユーロの由来は「ヨーロッパ」ですが、そのヨーロッパの名前の由来はギリシャ神話に登場する「エウロペ」という姫です。エウロペはテュロスのフェニキア王アゲーノールとテーレパッサの娘で、非常に美しい姫でした。
その姿に心奪われた神の王ゼウスは、白く美しい牡牛に変身して近づき、彼女の気を引こうと考えました。その牛がおとなしいと思ったエウロペはその牛の背中にまたがり、その瞬間牛は立ち上がって猛然と走りました。牛はエーゲ海を渡るとクレタ島(ギリシャの南方にある島)までたどり着き、そこでゼウスとしての正体を表し思いを伝えました。
エウロペは思いを受け入れ、クレタ島最初の姫となりました。牛が駆け回った場所はエウロペの名前からヨーロッパと呼ばれるようになりました。
後にエウロペはゼウスとの間に3人の息子(ミーノース、ラダマンテュス、サルペードーン)を設け、そのうちミノスはクレタ島の大王となりました。ゼウスはエウロペに必ず獲物を捉える猟犬、亡くなることがない投槍、クレタ島を守るターロス(怪物)を与えると、再びお牛に姿を変えて天へと登っていきました。
欧州連合誕生までの歴史
第2次世界大戦終了後のヨーロッパでは、大戦に対する反省から、ヨーロッパ全体を統合しようという機運が高まります。1946年にはイギリスのチャーチル首相がスイスのチューリッヒ大学でヨーロッパ合衆国の創設を訴えます。
これはヨーロッパ全体をアメリカ合衆国のように一つの連邦国家にしようとするもので、大きな反響を呼びました。ただし、チャーチル自信はイギリスを合衆国に加えるつもりはなかったとされています。
当時の欧州では、フランスとドイツが度々国境付近の石炭と鉄の利権を巡って争っていました。互いに利権争いを繰り返しては両国共に疲弊するだけだと考えたフランスは、鉄と石炭は第三者的な立場の国際機関が管轄すれば良いと考え、西ドイツも同意。理念に賛同する4カ国を加え、計6カ国で、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)を設立しました。
その後1958年に上記の6カ国は、新しく欧州経済共同体(EEC)と欧州原子力共同体(EURATOM)を設立します。なかでもE経済共同体は現在の欧州連合(EU)にもつながる画期的な案が多数取り入れられていました。
代表的なものは、加盟国間では関税に共通の制度を適用することを伴う「関税同盟」です。簡単に言えば、加盟国同士で高い関税をかけるのは止めましょう、という取り決めです。
1967年には3つの共同体を1つにまとめた欧州共同体(EC)が誕生、欧州経済共同体の6カ国に加えてアイルランド、イギリスなど6カ国が加わり、加盟国は12カ国になりました。1979年には初めて欧州議会議員選挙が開催され、410名の議員が選出されました。
1991年には現在にも続く欧州連合(EU)が誕生します。欧州連合で統一された通貨を発行すべきという機運が高まり、導入されたのがユーロです。すべての加盟国で導入されたわけではありませんが、欧州連合内に欧州中央銀行が設立され、各国の中央銀行の業務を引き継ぐようになりました。
ユーロを導入することによって、欧州連合内での取引が活発になり、経済はより発展していくものと考えられました。実際、ユーロの導入は加盟国にメリットももたらしたのですが、それと当時に大きな弊害も生まれました。
経済力も景気も異なる国家間が同じ通貨を採用するとどうなるか
現在、欧州連合には27カ国が参加しています。一方、ユーロを導入している国は19カ国です。19カ国の中には経済大国もあれば、そうでない国もあります。例えばユーロ圏の国民所得の平均値を100とすると、最も高い国はルクセンブルクの263で、最も低い国はギリシャの75です。また、経済成長率も国によってまちまちです。
ユーロ圏では、欧州中央銀行(ECB)及び各国中央銀行からなる欧州中央銀行制度(ESCB)を通じて単一の金融政策が行われます。金融政策とは簡単に言えば、経済を拡大し、あるいは景気を回復させるために行う政策のことです。金融政策は市場に出回るお金を増やす「金融緩和」と、その逆の「金融引締め」があります。
不景気のときには中央銀行が民間銀行にお金を貸す時の利子率を下げたり、民間銀行の持っている国債を買ったりするなどの金融緩和を行い景気を刺激します。好景気のときにはそれとは逆の金融引締めを行ってインフレを抑制します。
しかし、ユーロ圏の中には好景気な国もあれば不景気な国もあります。例えばドイツが好景気で、フランスが不景気なときに付いて考えてみましょう。金融緩和を行えば、フランスの不景気は解消されますが、ドイツで市場にお金が余り過ぎ、ハイパーインフレをもたらす恐れがあります。
逆に金融引締めを行えば、ドイツのインフレは抑制され物価が安定しますが、フランスの不景気は加速します。景気循環が非同期的である以上、このような問題は常に生まれます。
また、ユーロが複数の国で採用されると、ユーロ圏内で失業率に大きく差がつきます。例えば人件費の高い国と人件費が安い国があった場合、多くの国は人件費の安い国に投資をしようとするでしょう。すると人件費の安い国の失業率は下がる一方、人件費の高い国の失業率は上がります。
このような現象自体は違う通貨圏内でも発生しますが、同一通貨圏内ではより発生しやすくなります。
複数の国が強く結びつくことの弊害
2010年にはギリシャの債務問題が欧州連合全体の経済危機につながりました。一つ問題のある国家が存在すると、その国に他の国が足を引っ張られるというのも、欧州連合の弱点です。もちろん、理屈の上では一つの国が困窮しても他所の国が助ければいいのですが、世の中は理屈どおりに動きません。
ギリシャ以外の国から見れば、ギリシャはろくすっぽ働きもせず無駄に浪費を続けてきた国であり、そんな国の面倒をなぜ自分たちが見なければならないのか、ということになるからです。
欧州連合の現在と未来
連合は人間の尊厳に対する敬意、自由、民主主義、平等、法の支配、マイノリティに属する権利を含む人権の尊重という価値観に基づいて設置されている。これらの価値観は多元的共存、無差別、寛容、正義、結束、女性と男性との間での平等が普及する社会において、加盟国に共通するものである。
という(少なくとも建前上は)非常に崇高な目的で作られた欧州連合ですが、加盟国の利害対立という圧倒的な現実が明らかになるに連れて、その建前は禿げつつあります。
2013年にはイギリスのキャメロン首相が「欧州連合残留の是非を問う国民投票を実施する」と表明し、2016年には国民投票で離脱派が多数を取ります。イギリスはもともとユーロを採用していなかった国ですが、それでもこの出来事は欧州連合全体に大きな衝撃を与えました。
欧州連合残留を主張していたキャメロン首相は辞任を表明し、離脱の時期については次期政権に委ねるとしています。イギリス国内では国民投票のやり直しを求める声も上がっており、イギリス国内も一枚岩ではありませんが、欧州連合が各国にとって本当にメリットが大きいものであるのかを考え直す時期に来ているのかもしれません。
ポンドの由来は重さにあり!
イギリスの通貨「ポンド」の由来は、重さのポンドです。古代ローマ帝国では、重さを「ポンド」、それを図る装置を「リブラ」とよんでいました。当時は1ポンドの製粉によって焼かれたパンが1日分の主食量に相当しました
ポンドの隆盛と凋落
大英帝国全盛期の時代、イギリスはすべての国家の中でも最先進国に位置していました。当時のイギリスは多くの植民地を所有し、繁栄をほしいままにしていました。ナポレオン戦争以後は世界最大の超大国となり、19世紀後半のウィクトリア朝において全盛期を迎えました。当然、イギリスの通貨のポンドも国際的な決済通貨として扱われていました。
しかし、二度の世界大戦によってイギリス国内は大きく疲弊。一方で戦禍の影響が限定的だったアメリカは国力を大きく伸ばし、ドルがポンドを押しのけるように基軸通貨に成り上がります。戦争の爪痕の大きいイギリスは、植民地を次々と手放します。
1991年に欧州連合が結成されると、イギリスも欧州連合入りを果たしますが、ユーロの導入は拒否。自国通貨のポンドを使い続けます。以外に思われるかもしれませんが、欧州連合の加盟にユーロの導入は必須とはされておらず、例えばうスウェーデンやデンマークも欧州連合に加盟しながら独自通貨を採用しています。
ポンドの凋落も止まらず、1980年には1ポンド=520円だった為替レートは、2017年には1ポンド=140円にまで下落。円ではなくユーロと比較した場合でも下落傾向にあり、一時期は本気でユーロ入りの検討をしたほどでした。その後どうにかこうにか持ち直したものの、もはや世界の元基軸通貨としての立場はなくなってしまいました。
そんなポンドの特徴は、つい最近(1971年)まで十二進法を採用していたことです。十二進法とは、各数字の位が0~Bまである数え方のことです。それ以降は他の国と同じく十進法を採用していますが、当時の名残でイギリスの小学校では九九を十二の段まで覚えるのだとか。
また、当時は補助通貨がペンス、シリング、クラウン、フローリン、ギニーとやたら多かったのも特徴でしたが、十進法の採用によりペンス以外の補助通貨は廃止となり、レートは1ポンド=100ペンスで固定されるようになりました。
中国元の由来は清朝の時代まで遡る
現在中国で使われていて、世界的にも重要な通過になりつつある「人民元」。流通が始まったのは1948年のことですが、「元」という名前の由来を知るためには、清朝時代(1616年~1912年)にまで遡らなければなりません。
清朝は1616年、満州(中国の東北部)で建国された中国最後の王朝です。女真族(満州にいた民族)のヌルハチは、1616年に後金国いう国を建国します。ヌルハチはそれと同時に満州文字や八旗制(満州人を支配する社会制度)を定め、女真族発展の基礎を築いていきます。
後金国の勢力は次第に広まり、ヌルハチの子供ホンタイジは明の領土と南モンゴルを征服し、女真族の民族名を満州に改め、自らが皇帝として即位します。
後金国は清となり、ホンタイジの子供である順治帝が第三代目の皇帝に収まってまもなく、北京で李自成の乱が発生し、明が滅亡します。清は李自成を破って北京を首都に据え、中国支配を開始。
明の制度を十分残すことによって、中国では圧倒的大多数だった漢民族を懐柔し、清の歴史が本格的に始まります。
清朝の貨幣制度
清は貨幣制度として銀錠と呼ばれる制度を導入します。銀錠の単位は重量と同じ「両」で、その英語表記よりテール(tael)と呼ばれました。日本の石見銀山や南米のポトシ銀山から算出された銀を大量に輸入するようになった清国では、純銀に近い良質な銀を用いた銀錠が徐々に流通していきます。
一方、他国との貿易が盛んになるに連れて、ヨーロッパからも銀貨が入ってくるようになります。当時はこれを数える単位として「圓」が使われていましたが、画数が多くて面倒くさいということで、中国語で発音が同じで画数が少ない「元」が取って代わりました。
更に時代は流れて1800年台に入ると、広域な領土に対する清朝の求心力は大幅に低下し、経済停滞、食糧不足、社会動乱に見舞われます。西欧列強が次々と中国に進出し、また国の内部でも太平天国の乱や回民放棄が発生し、清は半ば列強の植民地と化します。
中国内部では西洋の技術を取り入れんとする洋務運動や、立憲君主制を目指す変法自強運動が起こりますが、西太后率いる保守派のクーデターにあって失敗。
西太后の死去に伴いようやく近代化改革に踏み切るものの、かつての求心力を取り戻すことはついぞなく、漢民族の孫文らによって辛亥革命が起こり、南京で中華民国が設立。清朝の皇帝、溥儀は正式に退位し、清朝は滅亡しました。
中華民国の成立~中華人民共和国の設立
中華民国の国民党は1928年、統一的な国民経済を形成するために上海に中央銀行を設置します。当初は銀本位制を採用していましたが、大恐慌による銀の暴落が起こり大きな打撃を受けます。1933年には銀錠が廃止され、銀本位通貨の単位が「元」に統一されます。
一方、中国共産党は支配地域で独自通貨を発行していましたが、国民党の支配が及んでいない地域(解放区)でしか流通していませんでした。
その後中国共産党と国民党は対日のために一時的に協力関係を結びますが、国民党が前線で戦い疲弊していたのに対して、共産党は工法で力を蓄えながら宣伝活動で一般大衆を味方につけていました。
そのため、日本が敗戦し国共内戦が開始すると、共産党はソ連の支援を受けながら国民党を圧迫。内戦を優位に進めます。1948年、共産党は中国人民銀行を解説し、人民元を発行します。
その後共産党は1949年に中華人民共和国の設立を宣言。各地方政府を支配し、通貨統合を進めます。国民党の紙幣は中華人民共和国の設立とともに停止され、中国大陸の通貨は人民元へと統一されました。長らく事実上の固定相場制を保っていた人民元でしたが、2005年には人民元の通貨切り上げが行われました。
一方、敗れた国民党は台湾に写り、ニュー台湾ドルを発行開始します。当初は地域通貨として発行されたNEW台湾ドルでしたが、やがて正式通貨と認められました。
日本円はもともと元になる予定だった?
現在、日本で広く流通している「円」。我々の生活にはもはや欠かせないものですが、実はこの円はもともと「元」になる予定だったとされています。
その前にまずは江戸時代以前の貨幣の歴史を振り返ってみましょう。日本で初めて鋳造されたとされている貨幣は7世紀の銀貨「無文銀銭」です。
その後も日本各地で様々な貨幣が作られましたが、平安時代中期に朝廷(天皇や貴族が政治を行う場所)が皇朝十二銭と呼ばれる貨幣の鋳造を停止します。その後しばらくは中国から輸入した貨幣などが使われました。
江戸時代には日本の貨幣制度が統一され、江戸幕府は金貨、銀貨、銅貨を鋳造。それまで広く流通していた明銭(中国のお金の一つ)は使えなくなりました。
しかし、経済規模が発達し貨幣の需要が増加すると、金銀が不足しそれに見合った貨幣を鋳造できなくなったため、幕府は改鋳を繰り返しました。また、各藩の大名は一部の地域でのみ通用する藩札という紙幣を導入し、江戸時代後期には外国製の銀貨も流入したため、日本の貨幣市場は混乱を極めました。
1867年に王政復古が宣言されると、新政府はそれまで貨幣を鋳造していた金座や銀座を取りまとめ、藩札を廃止するなどして新花柄流通のための準備を行います。
1871年には日本で最初の近代的な通貨制度である「新貨条例」を制定、それまで流通していた「両・分・朱・文」を廃止し、代わりに「円・銭・厘」を導入します。
また、当時は多くの国で金本位制が採用されていたため、日本もそれに倣って金本位制を採用します。当時の交換レートは1ドル=1円でした。
円の由来とされる3つの説
さて、新貨条例が制定される2年前の1869年、当時通貨政策を担当していた大隈重信は新通過を決める会議で「両に変わる新たな通貨の単位は元が良い」と主張しました。
しかし、そのわずか4ヶ月後に作成された外交文書には「一円ヲ以テメキシコ洋銀一枚ニ……」と残されています。一体なぜ元は却下され、円が採用されたのでしょうか。実はその理由については未だに明らかになっていません。当時の資料が火事で燃えてしまったからです。
現在有力視されている説は
- 楕円形や四角形など様々な形状が採用されていた江戸時代の貨幣を刷新し、すべての貨幣を円形で揃えたため
- 製造モデルとなった香港銀貨「壱円」をまねたため
- 円銀と呼ばれる中国通貨の影響を受けた
の3つですが、どれが正しいかは未だに明らかになっていません。もしかしたら、複数の説が全て正しいということもありえます。ちなみに、「銭」はアメリカの「セント」を参考に名づけられたものです。こちらは大隈重信の提案がそのまま受け入れられたとされています。
明治維新~2度の対戦
金本位制度を採用した日本でしたが、他国と比べて金の準備が少なく、また金貨が流出し続けたために、1871年には金銀複本位制に(実質的には銀本位制)転向します。
その後1894年には日清戦争で清から多額の賠償金を得て事実上の金本位制に復帰しますが、1914年の第一次世界大戦の混乱で再び金本位制を取りやめます。
アメリカは1919年に金本位制に復帰したものの、日本は関東大震災などの影響で果たせませんでした。第二次世界大戦末期には金とドルに兌換性をもたせ、他の通貨はドルとの固定相場制とするブレトン・ウッズ協定が結ばれます。
戦後~高度経済成長期~
1945年敗戦した日本は、連合国軍のもと新しい紙幣を発行します。当時の日本ではインフレーションが進行しており、紙幣の供給が急務とされていましたが、物資が不足していたこともあり、民間の印刷会社も動員されました。
それでもインフレーションは止まらず、1945年~1950年の間に物価が50倍にもなるなど物価高は止まりませんでした。1949年の後半ころからはそれも次第に落ち着き、やがて高度経済成長期に入ります。1953年には銭が廃止され、圓のみが流通するようになりましたが、現在においても金融分野では1年未満の端数を表す際に銭が使われることがあります。
1970年台に高度経済成長期が終わり、1980年代後半にバブル経済を迎えた日本は、バブルの崩壊とともに失われた20年に突入。現在に至ります。
通貨同士の関係性
最後に、歴史とは直接関係ありませんが、通貨同士の関係性についても少し触れておきます。皆さんも御存知かと思いますが、変動相場制のもとでは、通貨の交換レートは毎日変動します。例えば、変動相場制採用当初は1ドル=360円だったドル円レートは、現在は1ドル=120円にまで変わりました。
もし通貨がドルと円しかなければ話は簡単なのですが、実際にはこれ以外にもポンド、ユーロ、人民元とたくさんの通過があります。これらの複数の通貨の需要と供給が絶え間なく変動することによって、交換レートも変化するわけです。
そして、この通貨ペアには相関関係があります。例えば、円/豪ドルと円/ユーロの間には強い正の相関関係があります。つまり、円安豪ドル高になったときは、それと同時に円安ユーロ高にもなりやすい、ということです。
逆に円/豪ドルとカナダドル/米ドルには負の相関関係があります。つまり、円安豪ドル高になったときは、それと同時にカナダドル高米ドル安にもなりやすいということです。
正の相関関係にある通貨ペアを組み合わせて買えば、一方の通貨ペアで利益が出たときにもう一方でも利益が出る可能性が高くなるため、リターンは多くなります。しかし、一方で損失が出たときにもう一方でも損失が出る可能性も上がるため、全体的にハイリスクハイリターンになります。
負の相関関係にある通貨ペアを買えば、一方で利益が出てももう一方でそれが相殺されることも多く、全体的にローリスクローリターンとなります。