今回はちょっと視点を変えて、経済学の勉強をしてみたいと思います。経済学といっても、別に難しく考える必要はありません。ここで触れるのは、経済学の中でも初歩の初歩だけです。一般的な足し算と引き算ができれば、誰でも理解することができるはずです。
目次
経済学は無駄をなくすための学問
経済とは簡単にいえば、何かを売ったり買ったりする取引のことです。例えば、スーパーマーケットに行ってお米を買うのも取引ですし、会社に就職して労働力を売るのも取引ですし、ドルを売って円を買うのも取引です。こうした小さな取引の集合体こそが「経済」の正体です。
そして、経済学とはこのような取引について分析し、どうすれば無駄のない資源配分ができるかを考えることを目的とした学問です。経済学と聞くとお金儲け理論を想像される方も多いかもしれませんが、お金儲けは経済学のほんの一部分にしか過ぎません。
すべての資源は有限である
では、一体なぜ無駄のない資源配分に付いて考える必要があるのでしょうか。理由は簡単で、資源は有限だからです。もし資源が無限にあったら、それをどのような形で使っても何の問題もありません。
しかし、世の中に存在する資源は全て有限なため、無意味な使い方をしてしまうと個人にとっても、社会全体にとっても損失になります。そうした損失をなくす方法を考えるのが、経済学の役目と言えます。
なお、個々で言う資源とはいわゆる「原材料」のことだけを差すのではありません。取引に関係するものは全て資源です。例えばお金、時間、あるいは労働力なども資源です。もちろん、石油や木材なども資源です。
資源を配分する「市場」
では、実際に資源はどうやって配分されているのでしょうか。資源を配分する場所、言い換えれば取引が行われる場所を「市場」と言います。日本やアメリカは市場経済という形式を採用しており、市場では原則として誰でも、いつでも、自由に取引を行うことができます。
これに対して、国・政府が予め何をどれだけ取引するかを前もって決めておき、それに沿って国民が行動する形式を社会主義経済といいます。
社会主義経済のもとでは原則として失業が発生しませんが、政府の決めた取引量が実際の必要量とかけ離れ、ものが足りなくなる事態が相次いだことから、現在は多くの国が社会主義経済を放棄しています。
市場で取引をする企業と家計
市場は取引が行われる場所、言い換えれば何かが売買される場所です。市場で何かを売買する主体は「企業」と「家計」です(実際には政府も入ってくるのですが、ここでは省略します)。
企業とは清算・販売を行う経済主体です。企業は資本・土地・労働力という3つの要素を元に様々なものを生産して販売します。企業の目的は利益を追求することです。
家計は要するに消費者のことです。家計は企業や政府、自治体などに雇われて所得を得て、その所得で消費活動を行います。また、消費活動で残ったお金を貯蓄に回すこともあります。貯蓄に回されたお金は銀行などに預けられ、別の個人や企業に融資されます。
市場は全部で3つ
さて、取引を行う場所を市場といいます。経済学では世の中に存在する無数の市場を「生産物市場」「労働市場」「資本市場」という3つの市場に分類します。
生産物市場
生産物市場とは、生産物、財やサービスなどを取引する市場です。財とは簡単にいえば、形のある商品、例えば牛乳、ベッド、鉄鋼、石油などです。
一方、サービスとは形のない商品、例えば宅配便やマッサージ、教育などのことです。生産物市場では原則として企業が財やサービスを提供し、家計がそれを購入します。
労働市場
労働市場とは、労働力を取引する市場です。労働市場には働きたい人と雇いたい人がいて、双方の合意のもとにその人の賃金を決めます。労働市場では原則として家計が労働力を提供し、企業がそれを購入します。
資本市場
資本市場は資本、お金を取引する市場です。要するにお金を貸し借りする場所のことです。
2つの経済学
経済学は大きく「ミクロ経済学」と「マクロ経済学」に分水することができます。
ミクロ経済学
ミクロ経済学とは、市場で取引をする企業、あるいは家計の行動や行為を分析する経済学です。企業は、あるいは家計は常に自分にとって利益が最も大きくなる選択をしようとします。
例えば、限られた予算の中でどんな商品を購入すれば最も満足できるのか、最も利益を大きくするためには商品をどの程度生産すれば良いのか、などを個々の立場にそって考えるのが、ミクロ経済学の役割です。
マクロ経済学
一方、マクロ経済学とはもっと巨視的な立場に立った経済学です。マクロ経済学では個々人の特性などには注目せず、平均的な企業や家計がどのような行動を取るのかを分析します。GDPや国民所得、物価などを中心に分析が行われます。
アダム・スミス、マルクス、ケインズ、それぞれの主張
経済学を考える上で、欠かせない3人の学者の主張について軽く説明します。
アダム・スミス
アダム・スミスは1723年生まれのイギリスの経済学者です。アダム・スミスの主張は「国富論」という著書を読めばわかりますが、それを簡単に書き示せば「個々人や企業が自由に経済活動をすれば、国全体が豊かになっていく」というものです。
アダム・スミスは同著の中で「政府は余計な干渉をすることなく、自由な取引を妨げるものを排除することに専念すべき」と主張しています。このような主張を古典派経済学といいます。
また、彼は経済水準は供給が決めるとしています。何かを供給すれば必ずその分だけ需要が生まれ、商品は余ることもなく足りなくなることもなく常に捌けるというわけです。これを「セイの法則」と言います。
が、もちろん実際の社会ではこのような現象は起こりません。売れ残る商品も、足りなくなる商品も山程あります。では、一体なぜこのような主張が成り立つのでしょうか。
実はセイの法則にはある前提条件があります。それは「供給と需要に応じて、価格が無限に変化する」というものです。例えば、供給に対して需要が少なすぎて商品が売り切れないときは、価格が安くなります。それでも売り切れない時は、もっと安くなります。
逆に供給に対して需要が大きすぎてすぐに売り切れそうなときは、どんどん価格が高くなっていきます。この前提が成り立っていれば、セイの法則は成り立ちます。
カール・マルクス
カール・マルクスは1818年生まれのプロイセン王国(ドイツ)出身の経済学者です。科学的社会主義によって、資本主義社会は共産主義者会に到達するという必然性を説いたことで知られています。
マルクスが生きた時代はアダム・スミスの経済理論が重視されていましたが、マルクスは政府が経済に関与せず、自由にやらせているだけでは資本家と労働者の格差がますます広がっていくばかりだと考えていました。
マルクスは人間の歴史は階級闘争の歴史、支配するものとされるものの間の争いであると主張し、やがて労働者は蜂起して資本家を倒す、と主張していました。
当時は今よりもずっと労働環境が悪く、マルクスの主張に共感する労働者がたくさんいました。
一部の国では社会主義経済が採用されたこともありましが、その後社会主義経済のもろさ(技術やデザインが進歩しない、独裁や言論統制を生む)が現れ、社会主義国家は次々と瓦解、もしくは資本主義経済に転換していきました。
一方で最近は再び労働者の搾取が問題化しており、彼の理論も再評価されつつあります。
ジョン・メイナード・ケインズ
ジョン・メイナード・ケインズは、1883年生まれのイギリスの経済学者です。ケインズの主張はものすごい大雑把に言えば、アダム・スミスとマルクスの中間にあります。
ケインズはアダム・スミスと違い、市場経済の流れのままに任せておくとダメなときもあるので、必要に応じて政府が経済活動に関わることを主張していました。一方でマルクスのように強烈な共産主義者ではありませんでした。
また、アダム・スミスは経済活動の規模が供給によって決まると主張していましたが、ケインズは有効需要によって決まると主張していました。有効需要が大きければたくさん供給が生まれ、有効需要が少なければあまり供給が生まれない、というわけですね。
なお、ここでいう有効需要とは、金銭的な支出を伴った実質的な需要のことです。例えば、お金のない人が高級外車を欲しいと思っていても、実際に外車が売れることはないのでこれは有効需要にはなりません。
大金持ちが高級外車を欲しいと思っていれば、実際に外車が売れるので有効需要になります。
ケインズは有効需要が大きければ供給が大きくなると考えていたため、政府には総需要管理政策(政府が需要を管理すること)を求めました。
景気が悪い時には政府が自ら景気を刺激して需要を押し上げて、不況を改善しよう、といったわけです。今でも古典派経済学とケインズ経済学の間に決着は付いていません。
合理的な選択
経済学には重要な前提があります。それは「企業や家計(個人)は、必ず合理的な選択を行う」というものです。
言い換えれば、企業や家計はそれぞれの選択肢についてプラス面とマイナス面、あるいは自分自身の好み(選考)を完全に把握しており、どれを選ぶとどの程度の利益が得られ、あるいは費用がかかるかを完璧に把握している、ということです。
もちろん、実際に企業や個人が利益や費用を完璧に把握しているわけではありません。しかし、経済学では把握しているものとして話をすすめるのです。
さて、経済学の世界では、合理的な選択をしたことによって得られる満足度を効用と言います。この効用というのは、ひとによって異なります。
例えば、ジュースを買うと効用を得ることができますが、その大小は人によって違います。ジュースが好きな人はたくさんの効用を感じるでしょうし、ジュースがあまり好きでない人は少しの効用しか感じないでしょう。
限界効用逓減の法則
財やサービスを追加的に消費して得られる満足度を限界効用といいますが、この限界効用は財やサービスの消費量が増えるに従って減っていきます。これを限界効用逓減の法則といいます。
例えば、すごくのどが渇いている時に飲む1本目のジュースでは大きな効用を得る事ができますが、その直後に飲む2本目のジュースで得られる効用はそれよりも小さなものです。3本目の効用は、2本目よりももっと小さいでしょう。
このように限界効用は徐々に減っていくものなのです。
経済学における企業と家計の行動指針
経済学ではその主体となる企業や家計は、皆自分の利益を最大化させることを目的に行動していると考えます。企業にとっての利益の最大化とは、限られた資金や時間の中で、経済的な利益を最も大きくすることです。
個人にとっての利益の最大化とは、限られた資金や時間の中で得られる効用を最大にすることです。例えば、同じ値段で売られているジュースとコーヒーがあったとします。
ジュースがコーヒーよりも好きな人は、ジュースでより大きな効用が得られるのでジュースを買います。コーヒーがジュースよりも好きな人はその逆です。
このように、企業や家計が自分の利益を最大化するように行動することを「利己主義的」と言います。経済学では皆が利己主義的に行動していると前提します。
完全競争市場
完全競争市場とは、完全競争が達成されている市場のことです。完全競争市場とは、何かを買いたがっている人と何かを売りたがっている人が無数に存在しており、提供される財やサービスの品質は常に一定で、売買される財やサービスの情報に差が存在しない市場のことです。
もちろん、実際にはこのようなことはまずありえないのですが、経済学ではとりあえずそう仮定します。物事を単純にモデル化することによって、理論が組み立てやすくなります。
さて、不完全競争市場では無数の売り手と買り手が存在しています。このような状況下では、売り手も買い手も自由に価格を設定することができません。
仮に売り手が利益を上げるために価格を引き上げたとしましょう。すると買い手はその売り手からは買い物をしなくなります。他にもっと安い価格で売ってくれる売り手がたくさんいるからです。
また、買い手は価格交渉をすることができません。売り手はその人に売らなくても、他に提示したどおりの価格が買ってくれる買い手に売ればいいからです。
完全競争市場では、売り手も買い手も自然と決まった市場価格に乗っかるしかなくなるのです。このように、自分で価格を決めることができない人たちをプライス・テーカーと呼びます。
不完全競争市場と独占
上記に上げた前提条件が達成されておらず、完全競争になっていない市場を不完全競争市場といいます。
独占
独占とは、売り手が1人(1社)しかいない状態のことです。完全競争市場において、企業はプライステーカーでしたが、独占市場において企業は価格を自由に設定することができます。企業は利益が最大になるように価格を調整します。
複占
複占とは、売り手が2人(2社)いる状態のことです。独占市場において企業は価格を自由に設定することができますが、複占市場においてはもう一方の売り手の価格を参考にする必要があります。
寡占
寡占とは、売り手が3社以上、なおかつそれほど多くない状態のことです。
独占的競争
独占的競争とは、企業は多数存在しているものの、提供される剤やサービスの質が一定でない時に起こる競争のことです。現実の経済に最も近いモデルであるといえるでしょう。
独占的競争下において、企業はある程度自由に価格を設定することができます。各企業の商品が差別化されており、同質の商品というものが存在しないからです。
予算制約と時間制約
もし資源に何の制約もなかったら、なんでも自由に買うことができます。しかし、実際には制約を受けずに何か行動をする人はいません。世界一のお金持ちでさえも資産は有限ですし、何も考えずにやりたいようにやっていてはいつか資源を失ってしまいます。
こうした制約の中で選べる選択肢を機会集合といいます。世の中には様々な成約がありますが、経済学において問題となりやすいのはお金と時間の制約です。前者を予算制約、後者を時間制約といいます。
ここでは時間制約について考えてみます。ジュースが1本100円、ポテトチップスが1袋200円で売られているとします。予算は1000円です。この予算の中でジュースとポテトチップスを買ってみましょう。
ジュース | 10 | 8 | 6 | 4 | 2 | 0 |
ポテトチップス | 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 |
ジュースを縦軸、ポテトチップスを横軸にとってグラフを書くと、左上に傾いているグラフを書くことができます。このようなグラフを予算制約線といいます。
実際には予算制約線の内側にある選択肢(機会集合)も選ぶことができるのですが、人間は予算の範囲内で効用を最大化させようとするという前提があります。多く買ったほうが効用が多く得られることは間違いないので、予算制約線上の何処かで消費するとここでは仮定します。
企業の生産可能性
家計と同じように、企業も予算や時間の制約を受けます。何かを無限に生産することはできないのです。また、企業が生産する財やサービスは一つとは限りません。
むしろ複数の財やサービスを生産する企業の方がずっと多いでしょう。通常、どちらか一方の財やサービスの生産を増やすと、そっちに人や設備を割くことになるので、他方の財やサービスの生産量は減ります。
ここでは、ジュースとポテトチップスの2つの財のみを作っている企業について考えます。この時のジュースとポテトチップスの生産可能な数の組み合わせを考えてみましょう。
ジュース | 10 | 9 | 8 | 6 | 4 | 0 |
ポテトチップス | 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 |
ジュースを縦軸、ポテトチップスを横軸にとってグラフを書くと、左上に傾いているグラフを書くことができます。このようなグラフを生産可能性曲線といいます。
実際には生産可能生曲線の内側にある選択肢(機会集合)も選ぶことができるのですが、企業は制約の範囲内で効用を最大化させようとするという前提があります。
多く生産したほうが利益が多く得られることは間違いないので、生産可能性曲線の何処かで生産するとここでは仮定します。
さて、実際に上記の表をグラフに起こしてみるとわかるのですが、生産可能曲線はまっすぐになりません。
ジュースしか作っていない時は、ジュースの生産量を1減らすだけでポテトチップスの生産量を1増やすことができていますが、次第にジュースを2、4、と減らしていかなければポテトチップスの生産量を1増やせなくなってしまっています。
普通ジュースしか作っていない企業がポテトチップス作りにも手を出すときは、労働者の中でも特にポテトチップスの生産が上手な人に任せます。なので最初はジュースの生産量を少し減らすだけで、ポテトチップスが1単位作れます。
しかし、ポテトチップスづくりが得意な労働者はやがていなくなってしまいます。それでもポテトチップスの生産量を増やすのならば、ポテトチップス作りの苦手な労働者にも任せなければなりません。
するとより多くの人員を割かなければならなくなるので、ジュースの生産量をたくさんは減らさないとポテトチップスが1単位作れないのです。
トレードオフ
さて、家計の場合でも個人の場合でも、どちらか一方の消費、もしくは生産を増やそうとすると、もう一方の消費、もしくは生産を減らさなければならないことがわかりました。
このように、どっちかを選んだらもう一方は諦めなければならない関係をトレードオフといいます。人生はトレードオフの連続です。
機会費用とサンクコスト
経済学においては、機会費用とサンクコストという概念があります。合理的な判断をするには、機会費用とサンクコストを知る必要があります。
機会費用とは、ある選択肢を選ばなかった場合、その選択肢を選んでいたら得られた利益のことです。例えば、今日はバイトに行くか、それとも渋谷で遊ぶかを考えます。バイトに行けば7000円稼げます。渋谷で遊べば3000円かかります。
バイトに行った場合に得られるメリットは7000円です。一方、渋谷で遊ばなかったことによるデメリットは、渋谷で遊ぶことによって得られたであろう効用と、-3000円です。従ってメリットからデメリットを引くと
7000円-(渋谷で遊ぶことにより得られる効用-3000円)=1万円-渋谷で遊ぶことにより得られる効用
となります。
渋谷で遊んだ場合、得られるメリットは渋谷で遊んだことによる効用です。一方、バイトをしなかったことによるデメリットは費用の3000円と、機会費用である稼げるはずだったバイト代7000円です。従ってメリットからデメリットを引くと
渋谷で遊ぶことにより得られる効用-3000円-(7000円)=渋谷で遊ぶことにより得られる効用-1万円
となります。合理的な判断をする上では、機会費用の考察が欠かせません。
一方、サンクコストとは、それまでに使った返ってこない費用のことです。合理的な判断をするにあたっては、サンクコストは全て無視する必要があります。
例えば、1800円を支払って映画を見るとします。映画は開始からずっとつまらなく、全く見どころがありません。映画館を途中でぬけ出て喫茶店にいくこともできますし、映画を最後まで見続けることもできます。このような場合に、正しい選択肢はどちらでしょうか。
1800円も払った以上はついつい元を取らなければと考えてしまいがちですが、合理的な判断をするに当たっては、サンクコストを考慮してはいけません。
それまでに使った1800円は無視して、「映画を見続ける」「映画館から出て喫茶店にいく」の選択肢のうち、どちらがより多くの効用を得られるかを判断します。
取引をすることによるメリット
市場では毎日、多くの売り手と買り手が取引をしています。売り手と買り手は前述のとおり、自身の利益や効用を最大限まで高めるために、利己主義的に取引を行っています。
双方が自分の利益や効用を最大化させることばかり考えていたら、取引なんて成立するはずがない(一方が得をしたら一方は損をする)ようにも思えます。しかし、実際に市場では取引が成り立っています。一体なぜでしょうか。
売り手の目的は言うまでもなく経済的な利益を得ることです。一方、買い手がの目的は効用を得ることです。買い手があるものを買うことによって得られる効用が、その価格よりも価値があると判断すれば、取引は成立するのです。
たとえば、売り手が1つ30円で生産した製品を100円で売るとします。売り手は商品が一つ売れるごとに70円の利益を得ます。一方、買い手は商品を買うことにより100円を失いますが、効用を得ます。
その効用に200円分の価値があるとか判断すれば、買い手は商品を買うわけです。逆に、その効用に50円の価値しか無いと考えれば買わないわけです。
取引をするとお互いの利益が増大する
今ここにAさんとBさんがいます。AさんとBさんはそれぞれ、自給自足によって生活しています。AさんとBさんはどちらも1日を魚の捕獲と米の収穫に当てています。
Aさんは1日をすべて魚の捕獲に当てれば8匹、米の収穫16合を収穫できます。一方、Bさんは1日をすべて魚の捕獲に当てれば32匹、米の収穫に当てれば米4合を収穫できます。
Aさん | Bさん | |
魚 | 8匹 | 32匹 |
米 | 16合 | 4合 |
AさんとBさんの内、魚を1日でより多く捕獲することができるのはBさんです。米を多く収穫できるのはAさんです。このように、両者の生産量の絶対値を比較して、より生産量が多い方を「絶対優位にある」といいます。
Aさんは米の収穫に、Bさんは魚の捕獲に絶対優位があります。仮にこの二人が1日の半分を魚の捕獲に、残りの半分を米の収穫に当てると、それぞれの生産量は以下のようになります。
Aさん | Bさん | 合計 | |
魚 | 4匹 | 16匹 | 20匹 |
米 | 8合 | 2合 | 10合 |
さて、この二人がもし仮に自分の得意な方だけ、つまりAさんは米の収穫だけ、Bさんは魚の捕獲だけに1日を当てるようになったらどうでしょう。この場合、両者の生産量は以下のようになります。
Aさん | Bさん | 合計 | |
魚 | 0匹 | 32匹 | 32匹 |
米 | 16合 | 0合 | 16合 |
AさんとBさんが1日の半分を魚の捕獲に、残りの半分を米の収穫に当てた場合よりも、魚と米、両方の生産量が大きくなっています。
つまり、それぞれが個人で自給自足しようとするよりも、二人がそれぞれ得意なことに特化して、最後に交換(取引)を行ったほうが、双方の利益が大きくなるわけですね。
絶対優位と比較優位
しかし、すべての人に何らかの特技があるとは限りません。上記の例ではAさんは米の収穫が、Bさんは魚の捕獲が上手と仮定しましたが、実際には両方とも上手な人もいれば、両方とも下手な人もいます。
両方とも上手な人は両方とも下手な人と取引をするメリットはなにもないかのようにも思えますが、果たしてどうなのでしょうか。
結論から言えば、その場合でも取引をしたほうが双方にとってお得になります。ここからはCさん、Dさんに登場してもらいましょう。
Cさん | Dさん | |
魚 | 4匹 | 64匹 |
米 | 8合 | 16合 |
Dさんは魚の捕獲と米の収穫、両方に対して絶対優位を持っています。Cさんには絶対優位がありません。もし両者が1日の半分を魚の捕獲に、残りの半分を米の収穫に当てると、それぞれの生産量は以下のようになります。
Cさん | Dさん | 合計 | |
魚 | 2匹 | 32匹 | 34匹 |
米 | 4合 | 8合 | 12合 |
ここでちょっと視点を変えてみましょう。Cさんが米1合を収穫するのに必要な機会費用(諦める魚の量)は魚1匹です。一方、Dさんの機会費用は魚4匹です。つまり、Cさんのほうが少ない代償で米が収穫できるわけです。
言い換えれば、CさんはDさんに比べて比較的得意なわけです。このとき、Cさんは米の収穫について比較優位の関係にあるといえます。一方、Dさんは魚の捕獲が比較的得意で、魚の捕獲について比較優位にあるといえます。
そこで、Cさんは自分の得意な米の収穫に特化し、Dさんは1日の4分の3を得意な魚の捕獲に当てます。
Cさん | Dさん | 合計 | |
魚 | 0匹 | 48匹 | 48匹 |
米 | 8合 | 4合 | 12合 |
やはりCさんとDさんが1日の半分を魚の捕獲に、残りの半分を米の収穫に当てた場合よりも、魚の生産量が大きくなっています。米の生産量は同じなので、合計生産量は増えています。
つまり、それぞれが個人で自給自足しようとするよりも、二人がそれぞれ得意なことに重点を置き、最後に交換(取引)を行ったほうが、双方の利益が大きくなるわけですね。
需要と供給
経済学の中でも特に有名なグラフに、需要曲線と供給曲線があります。需要曲線は需要と価格の関係を、供給曲線は供給と価格の関係をそれぞれグラフにしたものです。
さて、世の中には需要というものがあります。ここでいう需要とは前述の有効需要のこと、つまり与えられた価格に応じて、実際に消費者が購入する量のことです。ただたんに欲しいと思っているだけでは需要になりません。
例えば、ジュースが1本100円で売られているとします。この場合、Aさんはジュースを5本買います。もし120円だったら4本、150円だったら3本、80円だったら7本、50円だったら10本買います。
価格を縦軸、消費量を横軸にとってグラフを書くと、左上に傾いたグラフができます。これが需要曲線です。
ある価格を超えると、Aさんはジュースを1本も買わなくなります。この時、Aさんは市場から退出します。逆にある価格を下回れば、Aさんは市場に参入します。その価格は縦軸と需要曲線がぶつかる場所(切片)です。
ところで、実際に市場に参入しているのはAさんだけではありません。Bさんも、Cさんも参入しています。Bさんはジュースがあまり好きではないので、100円だったら2本しか買いません。Cさんはジュースが大好きなので、100円だったら12本買います。
仮に市場がAさん、Bさん、Cさんの3人で構成されている場合、100円だったら5本+2本+12本=19本売れるわけです。市場全体での需要が19本になるというわけですね。個別の需要を足しあわせていくことによって、市場全体の需要を導き出すことができるわけです。
一方、供給とは、与えられた価格に応じて、実際に市場に提供される量のことです。まず、市場で価格が決まります。するとそれに応じて、生産者は供給する量を決めます。
例えば、市場価格が100円だったとします。この場合、D社は市場にジュースを7本供給します。120円だったら10本、150円だったら14本、80円だったら6本、50円だったら2本供給します。
市場価格が高いほうが儲かるので、供給量は大きくなります。価格を縦軸、供給量を横軸にとってグラフを書くと、右上に傾いたグラフができます。これが需要曲線です。
ところで、実際に市場に参入しているのはD社だけではありません。E社も、F社も参入しています。E社はジュースは主力製品ではないので、100円だったら3本しか供給しません。F社はジュースが主力製品なので、100円だったら9本供給します。
仮に市場がD社、E社、F社の3社で構成されている場合、100円だったら7本+3本+9本=19本供給されるわけです。市場全体での供給が19本になるというわけですね。個別の供給を足しあわせていくことによって、市場全体の供給を導き出すことができるわけです。
需要と供給の調整能力
さて、仮に市場全体でのジュースの需要と供給の関係が以下のようになっているとします。
価格 | 50円 | 80円 | 100円 | 120円 | 150円 |
需要 | 30本 | 25本 | 19本 | 14本 | 11本 |
供給 | 12本 | 15本 | 19本 | 23本 | 29本 |
需要曲線と供給曲線を重ねて書くと、ある一点で交わります。この場合、価格が100円、取引量が19本のところで交わります。この点を均衡点と言い、その時の価格を均衡価格、取引量を均衡取引量といいます。
この点では需要と共有が一致しているので、売り手は全て商品を売ることができますし、買い手は商品を必ず買うことができます。つまり、売り手にとっても買い手にとっても理想的な状態であるということです。
理想的な状態をわざわざ変化させる必要はないので、一旦均衡価格に価格が落ち着くとそこからは変化しないのが通常です。
ただし、いつでも均衡価格が達成されるわけではありません。商品の売り手が均衡価格を知っているわけではないからです。
もし売り手が均衡価格を知らずに、ジュースを120円で売ってしまうと、需要が14本、供給が23本なので、ジュースは9本余ってしまいます。このように、供給が需要より多くなる現象を供給超過といいます。
一方、売り手がジュースを80円で売ってしまうと、需要が25本、供給が15本なので、ジュースが10本足りなくなってしまいます。このように、需要が供給より多くなる現象を需要超過といいます。
しかし、市場には価格調整のメカニズムというのがあります。例えば、最初に売り手がジュースを120円で売ったとします。その場合、需要が14本、供給が23本なのでジュースは9本余ります。
すると売り手は、安くしてでも売ろうと考えます。市場価格が安くなると、それでは利益が出ないと言って市場から退出する売り手が現れます。つまり、供給は減るわけです。
一方、市場価格が安くなれば、それならば買おうと市場に参入する買い手も現れます。つまり、需要は増えるわけです。多すぎた供給が減り、少なすぎた需要が増えるので、取引量は自然と均衡取引量に調整され、価格は均衡価格まで下がるわけですね。
売り手がジュースで80円を売っている場合は、需要が25本、供給が15本なので、ジュースは10本足りなくなってしまいます。
すると売り手は、売り切れるほど人気のある商品ならば多少値上げしても大丈夫だと思い、価格を上げます。市場価格が高くなれば、それならばと市場に参入する売り手が現れます。つまり、供給は増えるわけです。
一方、市場価格が高くなれば、それならいらないと考える買い手も現れます。つまり、需要は減るわけです。少なすぎた供給が増え、多すぎた需要が減るので、取引量は自然と均衡取引量に調整され、価格は均衡価格まで上がるわけです。
どんな商品でも基本的に、時が経てば価格は均衡価格に調整され、需要と供給は一致します。時間が経てば理想的な状態になるわけです。
需要曲線と供給曲線のシフト
ところで、需要曲線や供給曲線はいつでも固定されているわけではありません。何かが原因で動く(シフトする)ことがあります。需要曲線が右側にシフトすれば、均衡点はより右上に動きます。つまり、取引量が増えて価格は上がるわけです。
供給曲線が左側にシフトすれば、取引量は減って価格は上がります。実際の需要曲線や供給曲線は常に動いていると言っても過言ではなく、そのたびに均衡価格と均衡取引量が変化します。
需要曲線のシフト
需要曲線が移動する原因な主に2つです。所得が変化するか、他の財やサービスの価格が変化するかです。例えば、ジュースが100円の時の需要は19本ですが、もし仮に日本人の所得が2倍になったらどうなるでしょうか。
おそらく、需要はもっと増えるはずです。25本になるのか30本になるのかはわかりませんが、豊かになればそれだけ需要が増えることは間違いないでしょう。逆に、所得が半分になれば需要はもっと減るはずです。所得が増えれば需要曲線は右に、減れば左に動きます。
また、ジュース自体の価格が変わらなくても、他の財やサービスの価格が変化すれば、ジュースの需要が変わることがあります。例えば、仮にコーラの価格安くなったらどうなるでしょうか。
中には「ジュースのほうが好きだけど、コーラの方が安いからこっちを選ぼう」と考える人もいるはずです。コーラが安くなったことによって、ジュースの価格は変化していないにもかかわらず、ジュースの需要が減ってしまうのです。
逆にコーラの価格が高くなれば、「コーラの方が好きだけど、コーラは高いからジュースで我慢しよう」と考える人もいるはずです。コーラが高くなったことによって、ジュースの価格は変化していないにもかかわらず、ジュースの需要が増えてしまうのです。
ジュースとコーラのように、ライバル関係にある(需要を取り合う)財を代替財といいます。コーラはジュースの代替財であり、ジュースはコーラの代替財です。代替財が安くなれば需要曲線は左に、高くなれば右に動きます。
また、ポテトチップスの価格が半額になったらどうでしょうか。ジュースの愛好家の中には、ジュースとポテトチップスを一緒に食べるのが好きな人が一定量います。
ポテトチップスが安くなれば、フトコロに余裕ができるので「じゃあジュースも一緒に買うか」考える人も出てきます。ポテトチップスが安くなったことによって、ジュースの価格は変化していないにもかかわらず、ジュースの需要が増えてしまうのです。
逆にポテトチップスが高くなれば、フトコロに余裕がなくなるので「じゃあジュースは我慢しよう」と考える人も出てくるはずです。ポテトチップスが高くなったことによって、ジュースの価格は変化していないにもかかわらず、ジュースの需要が減ってしまうのです。
ジュースとポテトチップスのように、一方が売れればもう一方も売れる(一緒に使う)財を補完財といいます。ジュースはポテトチップスの補完財であり、ポテトチップスはジュースの補完財です。補完財が安くなれば需要曲線は右に、高くなれば左に動きます。
供給曲線のシフト
供給曲線がシフトする理由は主に1つ。生産コストの変化です。
例えば、ジュースを製造している企業について考えてみましょう。ジュースを作るのには費用がかかります。ジュースの原材料である果物の仕入れ、ジュースを作る設備の購入代や維持費、人件費など……。
もしもこうしたコストが高くなれば、あまり利益が出なくなるので、供給量は減ってしまいます。逆に、新技術が開発されたり、原材料が安くなったりして、コストが安くなれば、利益がたくさん出るので供給量は増えます。
コストが低くなれば生産曲線は右に、高くなれば左に動きます。
需要曲線や供給曲線がシフトするとどうなるか
国民所得が今までより増えれば、需要曲線が右側にシフトします。需要曲線が右側に動くと、価格は高くなり、取引量が増えます。所得が増える、つまり好景気になると価格は上がり取引が活発になるというのは、経験則にも合致していますね。
一方、国民所得が減れば、需要曲線は左側にシフトします。需要曲線が左側に動くと、価格は低くなり、取引量が減ります。所得が減る、つまり不景気になると価格は下がり取引が低調になるというのは、やはり経験則にも合致していますね。
ジュースの開発に使える素晴らしい技術が開発され、ジュースの製造コストが大幅に下がったとします。すると供給曲線は右側に動きます。供給曲線が右側に動くと、価格は安くなり、取引量が増えます。
技術革新が起こりやすいIT分野(例えばパソコン)で時が経つに連れてどんどん価格が安くなり、供給量が増えるのは、供給曲線が右にシフトしているためです。
一方、ジュースの原材料であるりんごが不作に陥り、ジュースの製造コストが高くなれば、供給曲線は左側に動きます。供給曲線が左側に動くと、価格は高くなり、取引量は減ります。
りんごが不作だった時にジュースの価格が高くなり、供給量が減るのは、供給曲線が左にシフトしているためです。
価格弾力性
需要も供給も、価格が変化するに従って高くなったり、低くなったりします。しかし、価格の変化に対する需要や供給の変化は、財やサービス、あるいは価格によって異なってきます。価格の変化に対する需要や供給の変化を、価格弾力性といいます。
需要の価格弾力性
まずは需要の価格弾力性について考えてみます。世の中には様々な商品がありますが、基本的にどの商品も安くすればたくさん売れます。しかし、価格を半額にしても1.1倍しか売れない商品もあれば、5倍売れる商品もあります。
価格が変動しても需要にあまり変化が見られない場合、その財やサービスの価格弾力性は小さいといいます。逆に、価格が変動すると需要が急激に変化する場合、その財やサービスの価格弾力性は大きいといます。
例えば、お米は価格弾力性が低い財の一つです。お米の価格が仮に半額になっても、2倍売れるわけではありません。価格が半額になっても人間の胃袋の大きさは一定であり、2倍の量が食べられるようになるわけではないからです。
逆に価格が上がったとしても(多少パンや麺に人は流れるでしょうが)、あまり需要は減りません。
逆に、ダイヤモンドなどは価格弾力性が高い財の一つです。お米は多くの人にとってないと困る財なので(中には全くお米を食べない人もいるのかもしれませんが)、多少価格が上がってもある程度の需要は保たれます。
一方、ダイヤモンドは多くの人にとってなくても困らない財なので、多少価格が上がっただけでも急に需要が減ってしまうのです。
基本的に生活必需品は価格弾力性が低く、奢侈品(贅沢品)は価格弾力性が高くなります。何故かと言うと、生活必需品のほうがライバルとなる財、つまり代替財が少ないからです。代替財が少なければ、高くてもその財を買うしかありません。
一方、奢侈品はライバルが多いので、高いにもかかわらずその財を買う必要はありません。お米、ティッシュ、水などの生活必需品の値段が安定しており、旅行、宝石、高級外車などは値段が乱高下するのはそのためです。
ただし、どんな財でも需要の価格弾力性が常に一定かというと、必ずしもそうとは限りません。同じ材であっても、価格によって需要の価格弾力性は変化するのです。
例えば、今あるダイヤモンドが100万円で買えるとします。100万円の商品には代替財がほとんどありません。代替財が少ないので、当然需要の価格弾力性は低くなります。
一方、このダイヤモンドが何らかの原因で(例えば、ダイヤモンドの原石が急にたくさん取れるようになるなど)、5万円になったらどうでしょう。5万円の商品には代替財がたくさんあります。
代替財が増えれば、当然需要の価格弾力性は高くなります。このように、一般的に価格が高くなると代替財が減る(ライバルが少なくなる)需要の価格弾力性は低くなり、価格が安くなると需要の価格弾力性は高くなります。
また、需要の価格弾力性は期間によっても異なります。例えば、今お米が10kg5000円で買えるとします。お米は生活必需品なので、代替財は少なく、需要の価格弾力性は低いです。
しかし、もしお米より安くておいしくてなおかつ生産効率も良い、新たな農産物ができたらどうなるでしょうか。おそらく多くの消費者はそっちに流れるはずです。つまり、お米にとっては新しい代替財が増えるわけです。
新しい代替財が増えれば、その分だけ需要の価格弾力性は向上します。需要の価格弾力性は常に一定というわけではなく、様々な要因によってその都度上下するというわけですね。
供給の価格弾力性
需要と同じく、供給にも価格弾力性があります。価格が高くなってもあまり生産量が増えない財もあれば、価格が少し高くなるだけで生産量が大きく増える財もあるのです。前者を「供給の価格弾力性が高い」、後者を「供給の価格弾力性が低い」と言います。
需要の価格弾力性は代替財によって決まりましたが、供給の価格弾力性は主にその財の価格と生産能力によって決まります。生産能力に余裕が有る場合は供給の価格弾力性は大きく、生産能力に余裕が無い場合は小さくなります。
例えば、缶ジュースの均衡価格が1本30円だったとしましょう。1本30円では利益が殆ど出ないので、企業は缶ジュースをあまり生産しません。あまり生産しないので、企業の生産能力には余裕があります。
仮にその後国民所得が増えて缶ジュースの需要曲線が右にシフトし、均衡価格が1本40円になった場合、企業は余った生産能力を使って缶ジュースを増産します。そのため、供給の価格弾力性は大きくなります。
一方、缶ジュースブームが加速して需要曲線が大きく右に動き、缶ジュースの均衡価格が1本300円になったらどうなるでしょうか。1本300円なら利益がたくさん上がるので、企業は設備や人員をフル稼働させて1本でも多く缶ジュースを供給しようとします。
設備も人員もフル稼働していて、企業には生産能力にもう余裕がありません。仮にその後もっとブームが加速して需要曲線がさらに右に動いて、缶ジュースの均衡価格が1本400円になったとしても、企業には余った生産能力がないのでそれ以上供給を増やすことはできません。
供給を増やせば儲かることがわかっていても、供給を増やすための生産能力がなければどうしようもないからです。
このように、供給の価格弾力性は生産能力に左右されます。生産能力に余裕を持ちながら供給されている財ほど供給の価格弾力性は高く、生産能力に余裕がなく目一杯供給されている財ほど供給の価格弾力性は小さくなります。
囚人のジレンマ
込み入った話が続いたので、ここでちょっとコーヒーブレイク。有名な「囚人のジレンマ」というゲームについて考えてみたいと思います。
あなたは友人と組んで銀行強盗をして、逮捕されました。あなたと友人はそれぞれ別々に取り調べを受けます。
もし両方が自白した場合、それぞれ懲役5年が課されます。もし一方が自白して一方が黙秘した場合、自白したほうは晴れて無罪放免となりますが、黙秘した方は懲役10年が課されます。両方共黙秘し続けた場合、半年(0.5年後)に釈放されます。
さて、あなたは自白しますか、黙秘しますか?
仮に友人が自白したとしましょう。この場合、あなたも自白すれば懲役5年、あなたは黙秘すれば懲役10年です。つまり、自白した方がいいということになります。
仮に友人が黙秘したとしましょう。この場合、あなたは自白すれば無罪放免、黙秘すれば0.5年で釈放です。つまり、自白した方がいいということになります。友人がどういう行動をとったかにかかわらず、あなたは自白を選ぶことになります。
一方、友人もあなたと全く同じことを考えて自白します。つまり、両者とも自白するわけです。両者とも自白するので懲役5年が課されます。
しかし、よく考えて、みれば、両者が自白して懲役5年よりは、両者が黙秘して懲役0.5年のほうがどう考えてもお得です。個々人がそれぞれ自分の利益を最大限にしようとした結果、両者に取って最適な答えを選べないことがあります。
囚人のジレンマは経済学を考える上ではたびたび重要になる考え方の一つです。
市場の失敗
さて、「需要と供給の調整能力」で解説した通り、市場には取引量と価格を調整する効果があります。しかし、その価格調整機能はいつでも常に正常に働くとは限りません。
市場だけに任せておけば、常になんでもうまくいくというわけではないのです。市場に任せた結果、最適な状態が達成されない現象を「市場の失敗」と言います。
例えば、缶ジュースについて考えてみます。仮に缶ジュースは日本全体で1本100円で3000万本取引されるのがベストだとします。
普通に考えれば、一旦市場価格が高くなったり低くなったりしても、いずれ市場価格は均衡価格の100円まで調整され、その結果3000万本取引されるはずです。
しかし、市場の失敗が起こると缶ジュースの均衡価格が120円に固定され、その結果均衡取引量が2500万本になってしまったり、あるいは均衡価格が80円に固定され、均衡取引量が4000万本になってしまうこともあるのです。一体なぜでしょうか。
外部効果
さて、取引というのは市場を通して行われます。市場とは前述した通り、買いたい人と売りたい人が無数に集まっている概念的な場所のことです。
しかし、家計や企業の行動は、時として市場を通さずに他の家計や企業に影響をあたえることがあります。これを外部効果といいます。
一戸建て住宅を3000万円で買ったAさんについて考えます。しばらくは何事もなく住んでいましたが、その後近隣に非常に大きなショッピングモールができました。ショッピングモールはとても便利で楽しいところで、Aさんは毎週そこに通って楽しんでいます。
Aさんはショッピングモールができたことで大いに得をしたわけですが、だからといって住宅メーカーから余分にお金を請求されることはありません。ショッピングモールの経済活動が、市場を通すことなくAさんに対して良い影響を与えたわけです。
このように、市場を通さず(対価を払わず)に良い影響を受けるタイプの外部効果を「外部経済」と言います。
さて、その後しばらく経ってから、Aさんの住宅の近くで工事が始まりました。何ができるのかなと思ってしばらく見守っていたAさんでしたが、新しく出来たのはなんと超高層マンション。このマンションのせいで、Aさんの家には全く日が当たらなくなってしまいました。
Aさんは超高層マンションができたことで大いに損をしたわけですが、だからといって住宅メーカーが補償金を払ってくれるわけではありません。超高層マンションの経済活動が、市場を通すことなくAさんに対して良い影響を与えたわけです。
このように、市場を通さず(対価が受け取れず)に悪い影響を受けるタイプの外部効果を「外部不経済」と言います。外部経済も外部不経済も、どちらも市場の失敗に数えられます。
外部効果はなぜ市場の失敗なのか
外部不経済はともかく、外部経済はいい影響を受けているのだから失敗には当てはまらないような気もしますが、実際には外部経済・外部不経済のどちらも市場の失敗に数えられます。
それはなぜかというと、外部経済・外部不経済が起こってしまうと、本当にベストな取引量と価格が達成されないからです。
何かを生産するときにはコストが発生します。そしてそのコストには「私的コスト」と「社会的コスト」があります。私的コストとは、生産をした企業が支払うコスト、例えば人件費や原材料費、設備投資などのことです。これは非常にわかりやすいですね。
一方、社会的コストとはその財やサービスを生産することによってその生産者以外の社会全体が負担することになるコストです。
例えば、缶ジュースを作る場合について考えます。ジュースを作るための人件費、原材料となる果物の仕入れ代、これらはすべて私的コストです。
一方、缶ジュースを生産すると少なからず社会的なコストも発生します。例えば、缶ジュースの缶は飲み終わったあとはゴミになります。このゴミを回収するのは缶ジュースのメーカーではなく、自治体です。
つまり、生産者以外の社会全体が間の回収コストを支払っているのです。これが社会的コストです。
外部不経済が起こるとどうなるか
缶ジュースメーカーは本来、その空き缶の回収代金(社会的コスト)まで含めてコストを計算して、それにもとづいて生産量を決めなければいけません。
しかし、実際に回収代金を支払っているのは自治体、つまりは社会全体ですから、企業は私的コストしか計算せず、生産量を決めます。
缶ジュースメーカーの立場からすれば、本来支払うべきコストを支払っていないので、缶ジュースの生産コストは安くなります。缶ジュースの生産コストが安くなればそれだけ供給曲線は右に移動します。
需要曲線が変わらないまま供給曲線が右に動くと、均衡取引量は大きく、均衡価格は安くなります。価格が安くなるのは家計にとって望ましいことですが、社会全体から見ればベストではありません。
均衡価格が理想的な価格より安く、均衡取引量は理想的な取引量より多くなってしまっているからです。
外部経済が起こるとどうなるか
今度は外部経済が発生した場合について考えてみましょう。外部経済とは簡単にいえば、本来は他社が負うべきコストまで自分が負っている状態のことです。
例えば、とある場所に、高級洋食店が1つだけあるとします。その洋食店のとなりにジュースメーカーの自社ビルがたちました。その大企業は昼食代を全額福利厚生でまかなっています。
洋食店は大企業の自社ビルができたおかげで、お客さんで賑わうようになりました。これは外部効果の一つといえます。本来は洋食店が負わなければならない集客コストを、ジュースメーカーが代わりに支払ってくれたのです。
ジュースメーカーはこのとき、本来支払う必要の無い高額な昼食代を支払っていることになります。するとジュースの生産コストは本来よりも上がってしまいます。するとジュースの供給曲線は左側にシフトします。
需要曲線が変わらないまま供給曲線が左に動くと、取引量は少なく、価格は高くなります。これもやはり、市場にとってベストな状態とはいえません。
外部不経済と外部経済はどう是正するか
外部不経済が発生している場合は、課税によって是正をします。外部不経済を起こしているということは、本来支払うべきコストを支払ってないということです。その調整を課税で行うのです。
逆に、外部経済が発生している場合は、補助金によって是正を行います。外部経済を起こしているということは、本来支払わないで良いコストを支払っているということです。その調整を補助金で行うのです。
税金や補助金を支払うのは政府です。市場に任せているだけでは外部経済や外部不経済が発生してしまうので、政府がそれを是正していくわけですね。
公共財とは
もう一つ、市場の失敗が発生する場面があります。それは「公共財」を提供する時です。公共財とは簡単にいえば、誰でも使用することができ、なおかつ特定の人を排除できない声質を持つ財のことです。
例えば、道路は代表的な公共財の1つです。道路は誰でも使用することができます。利用者が1人から5人に増えたとしても、それぞれの使える量が5分の1位になるということはありません。このように、人数にかかわらず同一量利用可能な性質を「非競合性」と言います。
また、道路は特定の人にだけ使わせるというのが非常に困難です。道路は税金によって作られますが、だからといって税金を沢山払っている人だけが道路を使えるわけではありません。税金を払っていない人も道路を使うことができます。
それは不公平だからといって、税金を払っていない人が道路を使えないようにすることはほぼ不可能です。税金を払ってない人の監視を24時間行い続け、道路を使おうとするたびに強制的に排除する、なんてことをしようとしたらコストばかりがかさんでしまいます。
そのため、不公平ではありますが、道路は誰でも使うことができるようになっているのです。このように、特定の人を排除できない性質を「非排除性」と言います。
「非競合性」と「非排除性」を併せ持つ財を「公共財」、そうでない財を「私的財」といいます。
公共財の提供
さて、公共財を提供する場合について考えてみましょう。例えば、Aさん、Bさん、Cさん、Dさんの4人が住む街に、道路を作る場合について考えます。公共財によって得られる便益(メリット)は人によって違いますが、ここではそれぞれの便益を以下のように設定します。
- Aさん:10
- Bさん:20
- Cさん:30
- Dさん:40
Aさんはほとんど出かけないので、道路による便益が小さいです。Dさんは車を使うので、便益が大きいです。
仮に道路を作ることによってかかる費用が80だった場合、便益の合計が100、費用の合計が80なので、便益のほうが大きく、従って道路は作ったほうが良いということになります。さて、ここでは一体どのようにして費用を分担するべきでしょうか。
まず、費用を純粋に4等分にしてみましょう。すると1人あたりの費用は25ということになります。しかし、AさんとBさんが道路で得られる便益はそれぞれ10と20で、費用を下回っています。
従ってAさんとBさんは「便益よりも費用が多いから道路はいらないよ」と断ってしまうわけです。
しかたがないのでCさんとDさんの二人でお金を出し合って作ることになりますが、それぞれが支払う費用は25なので、集まった資金の合計は25×2=50。
道路を作る費用の80を下回っていますので、これでは道路を作ることができません。たとえ4人の便益の合計が費用を上回っていても、道路が作れないのです。
では、費用を便益によって負担させるというのはどうでしょうか。それぞれが受けている便益が10:20:30:40なので、費用も10:20:30:40で割ってしまうのです。
この場合、それぞれが支払う費用は8:16:24:32となります。これはそれぞれが受ける便益を下回っているので、費用を支払うのに反対する人は理論上いなくなります。しかし、この方法も結局は成功しないのです。
この中で一番負担が大きくなるDさんは考えました。「費用負担が便益によって決まるんなら、道路によって得られる便益が少ないふりをすればいいじゃん」と。
費用をどれだけ負担しても道路の使える量は一定である以上、Dさんがこう考えるのは当然です。道路ができてしまえばこちらのものなのですから。
そしてそのことに気がつくのはDさんだけではありません。AさんもBさんもCさんも全く同じように考えるはずです。最終的には4人のいずれも「自分が道路によって得られる便益は0です、だから費用は1円たりとも支払いません」と主張するようになるでしょう。
各人が自分にとって最も利益になるであろう行動をとった結果、道路はいつまでたっても作られないわけです。これも市場の失敗と言えます。
公共財を提供するにあたっては、常にこのような問題が起こりえます。対価を支払わずに公共財を使おうとする人を「フリーライダー」と言います。公共財を提供する場面では、誰もがフリーライダーになろうとするわけです。
もし公共財があってもなくても構わないようなものだったならば、最終的に供給されなくてもそれほど問題はないのですが、困ったことに公共財は道路や警察、国防など、どれも社会にとっては必要不可欠なものばかりです。
そこで政府は市民から強制的にお金を集めて、公共財を作ります。
その結果損をしている人もいるのでしょうが(例えば、税金を沢山払っているのにほとんど道路を使わない人などは損をしていることになります)、こうすることによって少なくとも公共財が提供されないというリスクはなくすことができます。
所得の再分配
市場の失敗の是正の他に、もう一つ政府が担っている役割があります。それは「所得の再分配」です。
さて、仮に政府が市場の失敗の是正だけを役割として行動するようになったらどうなるでしょうか。何度も言っていることですが、市場において家計や企業は常に自分にとっても最も利益が出るような選択をします。
なので、質の高い財を提供することができる企業は儲かります。一方、質の高い財を提供することができない企業は儲かりません。質の高い財を提供している企業は儲かるので、それを社員にも還元します。
そういった企業で働いている人は、自然と給料、つまりは所得が高くなるわけです。一方、質の高い財を提供できない企業は儲からないので、自然とそこで働く人の給料は少なくなります。
これは非常に効率的なことです。質の高い財を提供している企業の利益が大きくなれば、自然とその企業が多くのシェアを占めることになり、市場全体に提供される財の質が向上します。
一方で質の高い材を提供できない企業は自然とシェアを落としていき、最終的には倒産することになります。質の高い材が提供できる、言い換えれば効率的に仕事ができている企業だけが、生き残っていくわけです。
限られた資源を効率的に使える企業が生き残るのは素晴らしいことです。家計も質の高い財を手に入れられるようになり、万々歳です。
ですが、この市場原理の流れには一つ問題があります。上記のような市場原理が存在している以上、誰でも労働市場で自分を高く売りたい、質の高い材を提供している企業に就職してたくさんの所得を得たいと考えるはずです。
しかし、実際にはそうした企業の就職枠は有限であり、一部の人しか就職することができません。
企業は原則として生産能力の高い人を優先的に採用します(もちろん、企業が常にその人の生産能力を書類や面接で判断できるわけではありませんが、ここでは企業は常に就職希望者の生産能力を見極められるものと仮定します)。
そうした優良企業の採用枠に漏れた生産能力の低い人は、もっと下の企業で我慢することになります。そこにすら入れなかった人はフリーターになったり、無職になったりします。家計や企業が効率性だけを求めると、このような現象が発生するのです。
ところで、個々人の生産能力はどのようにして決まるのでしょうか。もちろん、個々人の努力は大きく関係しますが、一方で自分ではコントロール出来ない環境や親の資産によって左右される一面もあります。
親が資産を十分に持っていれば、良い環境で勉強ができるので、高い生産性を身につけることができるでしょう。逆に親が貧しければいい学校にも塾にも通えず、満足に勉強できず、生産性を身につけることはできないでしょう。
もちろん、貧しくても勉強して立身出世する人はいますが、それは少数派です。
また、たとえ親がお金持ちでも、自身が病気持ちだったり、災害の被害者になったりすると十分に生産性を身につけられないことがあります。要するに、個々人の生産性は努力だけで決まるわけではないということです。
生産性の高い人には高賃金を、そうでない人には低賃金をと言うのは、市場の原理から見れば当然の話です。それが効率的であるからです。
しかし、これは効率的ではあっても公平であるとはいえません。本人の努力ではどうにもならない部分で、賃金が決まってしまうからです。これを是正するのが政府の役割です。
所得の再分配とは
所得の再分配とは、簡単にいえばお金をたくさん稼いでいる家計や企業からは多く税金を集めて、そうでない家計や企業のために税金を使う仕組みのことです。つまり、効率を犠牲にしてでも公平性を確保する仕組みと言えます。
この所得の再分配、一見お金持ちにとっては無意味、もしくは不利な制度に見えます。なぜ自分で稼いだお金を、見ず知らずの貧しい人間のために使わなければならないのだと思うかもしれません。
しかし、所得の再分配で公平性を維持することは、社会の安定を保つことにも繋がります。
貧富の差が広がると、貧しい人は犯罪を起こします。殆どの人が犯罪を起こさないのは、その便益(奪える金品や財)が費用(刑務所行きのリスク、人間関係の崩壊など)よりも小さいからで、そこが逆転すれば人は容易に犯罪を犯します。
犯罪が多くなれば、お金持ちといえども、被害に巻き込まれる可能性は高くなります。お金持ちはたくさん税金を払い、公平性を確保することによって自身が犯罪に合うリスクを軽減しているのです。
たくさん稼いでいる人からたくさん税金を取り、そうでない人からは少ししか税金を取らない仕組みを累進課税制度といいます。多くの国で採用されている制度であり、日本の場合、所得税は稼ぎによって0~40%のいずれかに決まります。
効率性と公平性、どちらが大切か?
公平性を確保するのは大切なことですが、一方で公平性を意識し過ぎると今度は効率性が落ちてしまいます。例えば、今の日本の所得税は最高で40%ですが、1億円以上稼いでいる人の所得税のみ80%になったらどうなるでしょう。
住民税は一律で10%なので、億プレイヤーはあわせて90%をとられることになってしまいます。仮に1億円稼いでも、1000万円しか手許に残りません。これではお金持ちは働く気をなくしてしまいます。
生産性の高いお金持ちが働く気をなくしてしまえば、日本経済の効率性は落ち、経済の規模は小さくなってしまいます。すると集められる税金が少なくなり、却って社会福祉の質が低下してしまうことにも繋がるのです。
政府はいつでも常に、効率性と公平性のトレードオフに直面しています。効率性を優先させると公平性がなくなります。公平性を優先させると、効率性がなくなります。どちらを重視するかは、人によって異なります。
TVなどで「大きな政府」「小さな政府」という言葉を耳にしたことがあるかと思いますが、「大きな政府」は簡単にいえば、経済に積極的に関わって公平性を重視する政府、小さな政府はあまりかかわらずに効率性を重視する政府のことです。
どちらがより優れた政府であるとは一概にいえません。立場によってその見方は変わるからです。貧しい人は国が面倒を見てくれる大きな政府を望むでしょうし、お金持ちの人は税金が安くなる小さな政府を望むでしょう。
そうした国民の異なる声をいろいろと考慮しながら、政府はどこでバランスをとるか決めるわけです。